皆さん、こんにちは。9月の研究室お便りを担当するD2の劉です。今回は9月21-23日に神戸で開催されたカルチュラル・スタディーズ学会の年度大会「カルチュラル・タイフーン2024」のことを話したいと思います。
今年、私は「荒木、女、『私』と都市:90年代日本写真の言説構造とミソジニー」というテーマで発表を行いました。同期の山本さん、M2の毛さん、十河さんも発表し、普段から研究室と交流が多い方々も発表され、そして先生はチェアとしてシンポジウムに登壇され、まさにゼミ総出で臨んだ大会でした。個人として、カルタイで発表するのはすでに三年目です。以前の二回はどちらもミスやトラブルがあったので、今年は無事に発表を終えることができ、本当に嬉しかったです。
これは発表の場所が古本屋だったおかげなのかも思いました。今年のカルタイは大学ではなく、神戸の市街地で開催され、会場は三ノ宮エリアの文化施設と西灘エリアの商店街という二つの場所に分散していました。私の発表場所は、灘駅に近い古本屋「ワールドエンズ・ガーデン」で、薄暗い店内で、参加者は椅子や木箱に座り、スクリーンを囲んで発表を聞くという、とても落ち着いた雰囲気でした。そのためか、発表後の質疑応答も学術的な真剣な議論というより、友達との会話のような和気藹々とした雰囲気で、私もリラックスしながら言いたいことを伝えられていました。そして、発表が終わった後には、同じ興味関心を持つ研究者と知り合って、私が調査している90年代を同時代で思春期を過ごした方々からも貴重な話を伺うことができて、学会に来て本当に良かったと感じました。
(図1)
会場が分散したため、テーマパークで遊ぶような気持ちで、自分の聞きたいパネルを選んで、移動ルートを決めておかないといけません。私も次の発表を聞きに、急いでワールドエンズ・ガーデンから主会場の一つである「KIITO デザイン・クリエイティブセンター神戸」まで自転車で駆けつけていました。そして、予想通りに迷子になって、聞きたかった発表を半分ほど聞き逃しました。学会にガッツリ参加するより、少し余裕を持って楽しむタイプなので、「まあ、いいか」と自分に言い聞かせていました。というより、移動中に目に飛び込んできた綺麗な青空、やさしい秋の景色、日差しにきらめく海、橋の下でバスケットをしている人々など、神戸の美しい風景を楽しんで、すでに心が満たされたかもしれません。
神戸に行くのは、ほぼ初めてでした。大会前日の21日には「西灘・水道筋ウォーク」という企画もあったようですが、発表準備のために参加はできませんでした。それでも、会場を転々と移動する途中で、「神戸ってこういう街なんだ」と感じる場面がたくさんありました。例えば、KIITOは海沿いにあり、隣には神戸税関の庁舎があって、それはとても立派な洋式建築でした。その庁舎を見た瞬間に「これ、地元の景色に似ている!」とふと思ったが、よく考えてみると、神戸も私の地元も、それぞれの国が近代化した際に最初に西洋に開放された港町であり、税関もその前哨として西洋諸国に負けないような威容を誇るデザインが施されていたのでしょう。この話を母にしたところ、港で働いていた母から、神戸と私の地元は姉妹都市だったと教えてくれました。このように、神戸という都市の歴史と現実を身をもって味わう瞬間がいくつもありました。
(図2)KIITO の向こうにある神戸税関
今回のカルタイで、友達が「Moshimoshi City 」という韓国のアーティスト、イ・ランによる作品について発表しました。彼女の話によれば、これは京都市東九条地区という在日コリアンのコミュニティと歴史的なつながりが深く、かつ激しい再開発を経験している地域で行った体験プログラムにも関わらず、アーティストはあえてその歴史に触れず、地球に訪問する宇宙人のような視点を取り、観光客の目線でこの地域を参加者に紹介しているそうです。そして、この「素人の視線」は記憶の政治に何度も塗り替えられた「玄人の視線」を問い直すきっかけにもなっているという。
夕日に染まる空を眺めながら、スポーツを楽しんだり、犬を散歩させたり、屋台グルメを楽しむジェンダーと人種が実に多様な若者たちと一緒にメリケンパークでくつろいで、「神戸は本当にいい町だな」と思ったのは確かなことです。しかし、西灘の商店街の商店主たちが社会構造の変化や人々のライフスタイルの変遷の中に向かう困難を考えることを促す本大会の宣言文を読み返すと、この町にも苦しむ人々がいって、その苦しみと私たちの楽しみとは必ずしも無関係ではないということに気づきました。こういった自分の「無知の知」と「知による知」をぶつけ合い、知の基準を問いかけながら、新たな知に導くことが大事な作業でしょう。
(図3)(図4)(図5)夕日に染まったメリケンパーク
市街地で開催されたため、移動に時間やお金がかかり、聞きたかった発表を逃してしまったり、手作りの布スクリーンにスライドがうまく投影できなかったりといった声も聞きました。一方で、通りかかったベビーカーを押すカップルのような方がシンポジウムに足を止めて聞いている姿も見かけ、学会は誰のために行うべきなのかと自問するようになりました。会場の設置やプログラム、参加費の設定によって、包摂される人と排除される人が必ず存在するでしょう。今回、私のパネルに車椅子で来られた方がいて嬉しかったですが、会場の地形や環境が普段よりも複雑になったにもかかわらず、プログラムにはアクセシビリティに関する情報が一切記載されていなかったのはやはり残念だったと思います。
カルチュラル・スタディーズという分野は、学術界で周縁化されつつも制度化されており、抑圧される者の生活世界に寄り添いながら、その文化実践に対しては「知の権威」を持つという矛盾した立場にあります。この多重の緊張関係にどう向き合いながら、反抗する知を生産し続けるかを考えることが、カルスタの研究者として重要だと思います。課題はありますが、象牙の塔に逃げ込まず、街に出て知の境界を常に挑戦し続けるのが、カルチュラル・タイフーンの変わらぬ姿勢だと思います。
今年の総会では、田中東子先生はこれから2年間、カルチュラル・スタディーズ学会の代表幹事に選出されました。今後のカルチュラル・タイフーンも、常に「学会とは何か」を考えさせるイベントであってほしいと願っていますし、自分もぜひその力になりたいと思っています。
(図6)シンポジウム「ポピュリズム、民主主義の危機、フェミニズム ――怒りとともに錨を上げてネオリベ批判とその先へ」の様子