研究室生の読書メモ:”Feminist Killjoys” (Ahmed 2010) と Feeling Backward (Love 2007)(担当:劉)

投稿日:2024.04.04

投稿者: 共通田中研究室

図1:The Promise of Happiness (Ahmed 2010) と Feeling Backward (Love 2007) の表紙

こんにちは。田中研所属で春からD2になる劉です。今回は自己紹介の代わりに、最近の読書メモを皆さんに読んでもらい、私の研究、私という人を知ってもらいたいと思います。

今回記述するのはAhmed(2010)のThe Promise of Happinessの第二章 “Feminist Killjoys”(同名の本はすでに飯田麻結(2022)により訳出)とLove(2007)のFeeling Backwardです。どちらの本も、今日我々の社会に蔓延している「幸せの強迫」に応えるものです。すなわち、Eva Illouz(2019;高里訳2022)が「ハッピークラシー」と呼ぶ経済学や心理学から文化産業や国家政府までが人々に「幸せであれ」と要求し、この「幸せ」を成功の基準として測ろうとする動向や、我々自身も「幸せでなきゃ」と自己啓発する文化・意識状況です。AhmedとLoveはそれぞれ英語圏のフェミニズム運動とクィア運動の感情アーカイブに目を向け、過去にある「不幸」を掘り起こし、その伝染力を利用して「幸せの強迫」に対抗しようとしています。ただし、後述のように、Ahmedが未来を前向きに捉えるのに対し、Loveは昔の不幸にとどまることをあえて肯定するという後ろ向きの姿勢を取っています。

Happiness(幸せ/喜び)はAhmedの感情哲学を貫く重要な研究対象であり、彼女は「幸せは何なのか」を「幸せは何をするか」と置き換えて問いかけます。「幸せな主婦」と「問題児の女の子」という二つのイメージの比較によって、今日のフェミニズムとジェンダー問題に纏わる幸せの政治の二つの命題が導き出されます。一つは幸せの条件性です。これはある人の幸せが他者の幸せを条件にして、他者の幸せに依存する状況を指します。例えば、小さい女の子が親を喜ばせたいために従順になる場合、彼女の喜びが親の気持ちに依存しています。同様に、一人の女性が専業主婦になって家庭に尽くすのが幸せだと自らを説得する時にも、自分自身の感情を犠牲にして家族ないし社会全体の「幸せ」を選択の基準にすることも多くあるでしょう。一方で、Ahmedはジョージ・エリオットやヴァージニア・ウルフが描いたメランコリーの女性人物を子細に読むことによって、過去の女性作家たちがいかに秩序に従って「幸せ」を確保するために自分自身の感受性、知性と想像力を手放さなければならない矛盾に苦しむ女性の心情を巧みに描写していたかを明らかにしました。フェミニストがよく「キルジョイ」(水を差す人)として見られることからもわかるように、この理不尽は今もなお続いています。そこで、Ahmedは「意識せよ」と訴えます。つまり、いかにその気づきが大きな悲しみをもたらすことがあっても、フェミニストは「幸せ」の一方通行が人生の道を狭くすることを気づかなければならないということです。これはフェミニズムの基本的な姿勢だと私も思います。

Ahmedの論証にもう一つの命題もありますが、それは「幸せ」の接近可能性です。白人女性が幸せに手を届けられるとされるのに対して、黒人女性やほかの少数者は先に幸せになれない人と定められてしまう問題です。この意味で、Ahmedの理論は交差性や多様性を包容できるはずですが――これはあまりにも無理な批判かもしれないが――私はこの論が健常者フェミニズムになりうる危険性もあると考えています。まず、第二波フェミニズムのように、フェミニストのイメージを家庭を後にして自分自身の生を選ぶ人々のあり様に固定してしまえば、つまり「幸せ」と「生」を対立させ、「生」を他者へのケアや愛する人に対する責任に対立させてしまえば、ケアや「愛」のために自己犠牲を選択する女性たちの生がそのままに見捨てられる可能性もあるのではないでしょうか。これは90年代以降にすでに指摘された第二波フェミニズムの不足だと思います。さらに、悲しみや苦しみをあえて意識することには多大な精神力が必要です。メランコリーに陥って、小さな喜びを何よりも大事にしている人たちに「自分の不幸に目覚めよう」と要求するのもあまりにも残酷なことではないでしょうか。強い主義だけでなく、ある種の「弱いフェミニズム」も必要だと私は考えます。

そこで、Loveの著書は面白い参照物になるかもしれません。彼女はFeeling Backwardにおいて、クィアな経験を二重の喪失として捉えます。まずは抑圧的な環境に生きることから生じる自己喪失感で、これは「ノスタルジア、後悔、羞恥、絶望、怨恨、消極、逃避、自己嫌悪、隠遁、苦悩、敗北感、孤独感」(p.4)といった負の感情として現れます。さらに、今のようなプライドを掲げる運動の拡大につれて、これらの感情の浮上も許されなくなり、クィアな人々は自らの負の感情すら失ってしまう状況に陥っています。だからこそ、Loveは「前ストーンウォール期」のクィア文学に遍在する自己嫌悪の感情に光を当てることによって、今もなおクィアな人々に取り憑くこれらの心情に呼応することを試みます。

しかし、これは90年代以降に展開された「逆転戦略」を取る運動、つまり「クィア」という言葉が象徴するように「醜い」とされていたものを全肯定して規範性を転覆する運動がある意味で主流化している英語圏でなされた議論で、日本や中国の社会文脈には必ずしもふさわしくはありません。そもそも、両者は時間軸が異なって、日本においてクィア的存在は置き去られた我々の「前近代」どころか、むしろまだ外部から迎えられていない明るい未来でしょう。しかし、現在日本各地で開催されているいわゆるハッピー気分満々なレインボーパレードに、苦しんでいる人々を代弁する政治的メッセージが見られず、単に可視性の政治にクィアでありながらも幸せな主体として社会参加することができるのを証明する道具になってしまうこともあれば、Loveが指摘している状況の兆候が現れていないとも言い切れません。あるいは、LGBTという響きの良い言葉のみを基準に政治的目標を設定し、歴史を記述するならば、それ以外のカテゴリーを名乗って生きる人たち――「おかま」、ニューハーフ、女装子――の生はどれくらい拾われられるのでしょうか。だからLoveは前に進むことを拒んで、後ろに残った/残されたと感じる人々の気持ちに寄り添うことを選びます。

ところが、ここにひとつの疑問が残っています。苦しんでいたらどうしましょう。AhmedとLoveはともに過去に注目し、「幸せ」から逃げた人たちのこれからを宙づりにしていますが、Ahmedは彼女らの行動主義に熱い視線を投げるのに対し、Loveは「苦しむだけでもいい、なんの政治的行動にも繋がらなくてもいいよ」と諄々と説きます。ここでLoveは他の情動的転回(affect turn)の理論家と一線を画します。Sedgwickが新たな連帯を築く基礎として「羞恥」に注目し、Ngaiは今時代の左翼政治の打開策として「嫉妬、苛立ちやパラノイア」といった失敗感を診断するのに対して、Loveは負の感情に政治的効用を求めません。さらに、クィアな人々が被抑圧的な位置に置かれるゆえの自己嫌悪に注目するが、Loveはよく一緒にされている他のクィア研究の「反社会的転向」(anti-social turn)の論者たち(eg. Edelman 2004)とも異なり、クィアを構造的に社会規範性に抵抗する存在であるとも捉えません。しかし、彼女は決して非政治的ではありません。つねに政治的未来に関心を持つだからこそ、彼女は急進的に絶望を希望に転じさせることによって、「絶望」が貶められ、あるいは見捨てられしまうことを危惧します。喪失感に政治的可能性が必ずしも潜むとは限らないが、喪失を感じる人を寄り添うなしに、クィア的な未来は成り立てないのです。Loveが私たちに問いかけているのは、「私たちの中にもっとも後ろ向きの人でさえも、そこに住みたいと思うような後進的な未来がいかに作られるのでしょうか。」(p. 163)

さて、ここで私の研究をすこし触れましょう。私は博士課程で「癒し」という感情を研究のテーマにして、人々がいかに日本のメディア・ポピュラーカルチャーに「癒し」を求め、「癒し」はいかにメディア・ポピュラーカルチャーとして作り出されているのかを探究しています。英語圏での「ハッピーネス」と同様に、日本社会で「癒されたい」はまさに一つの大きな空気になっているかもしれません。癒す側と癒される側の不平等を再生産させ、政治的行動を妨げる惰性があるとよく批判される一方で、弱い存在としての私たちに、癒しは欠かせない心情かもしれません。この曖昧さと繊細さはこの研究の醍醐味だと思っています。実は、今までの半年間に私は研究の現場を離れていたので、今は復帰の練習としてこの文章を書いています。しかし、大切な人々に寄り添った経験はこれからの研究生活中にも生かせられると信じます。私の研究にご興味がある方は、ぜひ暖かい目で見守ってください。

図1:The Promise of Happiness (Ahmed 2010) と Feeling Backward (Love 2007) の表紙

図1:The Promise of Happiness (Ahmed 2010) と Feeling Backward (Love 2007) の表紙

参考文献:
Ahmed, Sara. The Promise of Happiness. Durham: Duke University Press, 2010.
Edelman, Lee. No Future: Queer Theory and The Death Drive. Durham: Duke University Press, 2004.
Love, Heather. Feeling Backward: Loss and the Politics of Queer History. Cambridge: Harvard University Press, 2007.