研究室だより 12月号(担当:山本)

投稿日:2023.12.15

投稿者: 共通田中研究室

カルチュラル・スタディーズ学会研究活動委員会主催 Who Is Ariel? の登壇者たち(撮影: Kenshi Yoshida)

みなさま、こんにちは。
田中東子研究室所属の博士一年の山本恭輔です。

メディア文化論とカルチュラル・スタディーズの領域で、フェミニズムやジェンダー論、批判的人種理論の視座からディズニーの映画群を始めとする子どもも対象にしたポピュラーカルチャーにおける表象とそれをとりまくビジネス展開についての研究をしております。

この記事では12月2日に明治大学の和泉キャンパスで登壇した研究会についてレポートします。

カルチュラル・スタディーズ学会研究活動委員会主催 Who Is Ariel? のポスターと会場の様子(撮影: Kenshi Yoshida)

このイベントは、カルチュラル・スタディーズ学会研究活動委員会の主催で行われた研究会で、タイトルは「WHO IS ARIEL? ― 2023年版『リトル・マーメイド』をカルチュラル・スタディーズの視点で考える」。

タイトルの通り、このイベントでは2023年に公開されて話題を呼んだ実写リメイク版の『リトル・マーメイド』について表象分析の観点から、そして作品が黒人の俳優ハリー・ベイリーを主演に起用したキャスティングを取り巻いて起こったSNS上のバックラッシュの分析まで視点を広げ、カルチュラル・スタディーズ的に議論しようという趣旨で企画・実施いたしました。私、山本恭輔も報告者として登壇させていただきました。

司会者に田中東子先生、討論者に専修大学国際コミュニケーション学部教授で20世紀イギリスの文化と社会がご専門で、最近では『戦う姫、働く少女』(2017)や『はたらく物語: マンガ・アニメ・映画から「仕事」を考える8章』(2023)で著名な河野真太郎先生を迎え、表象文化研究者の関根麻里恵さんと共に2時間半たっぷり議論を行うことができました。

カルチュラル・スタディーズ学会研究活動委員会主催 Who Is Ariel? の登壇者たち(撮影: Kenshi Yoshida)

冒頭は、関根さんと私の二人による漫才スタイル(?)で、『リトル・マーメイド』がどうしてこれほど日本の文脈において注目されたのかの背景を共有するためのイントロダクションを行いました。ウォルト・ディズニー・カンパニーの中の構造や、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの作品の歴史、「ディズニー・プリンセス」フランチャイズの歴史、実写映画リメイクの歴史、日本におけるディズニーのテーマパークの歴史などの背景情報を振り返ることで、人魚姫の「アリエル」というキャラクターが日本において、市場的にも印象的にもどうしてこれほどインパクトが大きいのかを確認しました。

つづいて関根さんからは、実写映画の公開に際して多く寄せられた意見のひとつである「原作とのちがい/原作への忠実性」という視点について、アンデルセン童話と1989年のアニメーション版、2023年実写映画版をそれぞれ比較してその表象について検討することで、2023年版のほうが実はアンデルセン童話への一定のトリビュートがアニメーション版よりもなされている可能性などが指摘されました。その他にも「脚」や「足」、「声」といったアリエルを考えるうえで重要な要素についての分析や、ディズニー・プリンセス作品とフェミニズムの「波」の関係性についての分析も話題提供いただきました。

そのうえで私山本恭輔からは、実写映画の公開前からSNS上で寄せられた罵詈雑言も含む反応についての分析を紹介し、それらの差別的な発言も含む発信がどういうロジックのもとで行われているのかについて考察するべく、批判的人種理論の視座で「白人性(ホワイトネス)」と「カラー・ブラインド」や「日本人性」についての観点から話題提供を行いました。さらに、アニメーションと映画だけでなく、それらのコンテンツから派生する商品展開やテーマパークでの展開がトランスナショナルに行われていくうえで、どのように人種にまつわる批判性やインクルーシブさが反映されるか、あるいは反映されずに形骸化するかについて整理しました。#NotMyAriel といった否定的な発信を考えるうえでは、(1)より一層インクルーシブになる「ディズニー・プリンセス」が日本へ導入される際にビジネス的な理由でキャラクターが取捨選択されその包摂性が形骸化される文脈、(2)Diversity Equity & Inclusionの戦略としてDisney社全体で行われている過去の作品を批判的に見てより社会的に望ましい形へと変えていく「リイマジニング(REIMAGINING)」キャンペーンの一環としての実写アダプテーションの文脈、(3)テーマパークにおいて多様なキャラクターを再現するために行われる雇用枠の拡大と同時にキャラごとの人種隔離が進む可能性もあるという文脈、など重層的で複雑な文脈で整理することの必要性を主張しました。

討論者の河野真太郎先生は、これらの報告を受けてディズニーの作品自体というのがまさにアントニオ・グラムシ的な「常識を巡る闘争」の場であるという点で非常に「カルチュラル・スタディーズ的」な文脈に乗っていること、そしてそこでおこなわれる意味の塗替えは、単純に塗り替えていくという「(直線的な)進歩観」では、限界があることを指摘しました。つまり、「新しい作品であれば政治的に正しいはずだ」という前提のもとで否定や肯定を行おうとすること自体にはそれほど意味がないかもしれないということです。(例えば、アニマルスタディーズやディサビリティスタディーズ的な文脈で、喋る(意思疎通できる)魚とそうでない魚というのの描き理由などをみるとどうか、という提案がありました。)

山本恭輔が報告する様子 と 後半のディスカッションの様子(撮影: Kenshi Yoshida)

日本においては「人種性をあまり意識しないで生きられると思っているひと」が一定数存在していると捉えると、カラーブラインドと白人性が合体することで、レイシズムが正常化され日常化して見過ごされ、さらに日々のメディア接触を通して内面化する白人が持つマジョリティ性と自分たちを意識せずに重ねてしまい、その結果として非白人に対して白人的に振る舞ってしまう可能性があるということの現れのひとつなのかもしれません。

また同時に考えねばならないことは、選択肢が増えたり組み合わせが増えたりといったように「多元的(multiple)」になれば「多様性(diversity)」は達成されるのかどうか、ということです。

 

普段、社会問題とされるものについて積極的に攻撃的な発言をしないひとでも、「アニメ」や「映画」などポピュラーカルチャーについての話題であれば「好き嫌いの話しだから」と何でも言って良いと思ってしまうこともあるかもしれません。そういう認識、位置付けをされがちな、良くも悪くも身近なポピュラーカルチャーこそ、ある種社会の最前線の一つではないかと考えて、日々わたしは観察や分析、議論を行っております。

当研究室においても、立場を超えてより多くの人に影響力のあるポピュラーカルチャーをフックにさまざまなことを議論していければと思っております。